力への意思(ニーチェ)の自分なりの解釈

お久しぶりです、花粉です。初めましての方は初めまして。

 

最近ようやくニーチェの著(正確にはエリザベートフェルスター=ニーチェというフリードリヒヴィルヘルム=ニーチェの弟が兄の思想、遺書をまとめたもの)の力への意思を読み終わったので自分なりの解釈を書いていきたいと思います。

 

まえがき

 

「神は死んだ」という名言で有名なニーチェはポスト・モダン思想(現代思想ポストモダン思想)が隆盛を極めたとき、マルクスフロイトとともに「思想の三統領」の一人とされました。

 

ではなぜそのように呼ばれるようになったのでしょう…その正体は正常な人間なら誰しもが持っているであろう不正を憎む心、正義や公正を願う心、それらを弱者の醜い振るまいと切り捨ててしまう思想にあります。

 

それどころか、彼はすべての道徳や倫理は、無用のものだ、とまで言ってしまいます。そして道徳が否定された今、神は存在できないと結論づけるのです。

 

ニーチェの思想は、一見、投げやりで救いようのないものに見えますが、その本質は自分を取り巻く世界や自分自身の生に関する今までにはなかったとらえ方を提示してくれるのです。

 

 

 

ニヒリズム 価値あるものは存在しない

 

十数年前、テレビの公開討論番組が社会問題を引き起こしたことがあった。少年による殺人事件を受けて、子供や大人を交えて進められた番組で、一人の少年がこう発言したのだ。「なぜ、人を殺してはならないの?」。問いかけを受けた大人たちは誰一人その少年の質問に答えられなかった。このことはすぐに新聞やテレビで取り上げられ、知識人や文化人を総動員した騒動に発展したのだ。

 

しかし言われてみればもっともな疑問である。なぜ人を殺してはならないのだろう。こんなことを人前で聞こうものならすぐさま道徳心や倫理観の欠けたやつだ、と意識されてしまう。だがもしこのブログを読んでいる人でそのように考えた人がいるなら少し冷静になってほしい。そもそも、道徳とか倫理、道義の根拠や理由はどこにあるのだろう。

こうした一連の問いに対するニーチェの答えは、にべもないものである。

「道徳や倫理、道義に絶対的根拠も理由もない。政治家が不明朗な経理をしながら、それを認めようとしない。額に汗して働くことなく、株取引で巨額の収入を得る。そんな彼らを非難するのは持たざる者のひがみに過ぎない。殺人だっていっこうに構わない。私は自分が殺されていいと思っている。なぜなら、神は死んだのだから」

 

だが、なぜニーチェはこのようなことを言うのだろう。

 

続きはまた後日更新いたします。